宮城県登米市・豊里コミュニティ推進協議会

豊里にあがらいん
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人・ひと・豊里

『豊里の人間国宝』第6号決定

雄勝硯の名工
杉山 澄夫さん(下町地区)

                                   工房での杉山澄夫さん(撮影:杉山寿美恵さん)

今回紹介する『豊里の人間国宝』は下町にお住まいの杉山澄夫さん、石巻市雄勝町出身で昭和4年生まれ。雄勝硯の名工として知られています。杉山さんが修業を始めたのは尋常高等小学校を卒業後、13歳のとき。戦時中に父親の元で初めてノミを手にしました。職人の作業を間近でつぶさに観察し、真似を繰り返したそうです。昭和31年に河北町出身のゑみ子さんと結婚すると、背景の模様つけや磨きなどの仕上げは奥様の仕事となり二人三脚での作業となりました。杉山さんの若い頃は体重が100キロを越え、70kgもある商品を担いで行商に出ていたそうです。父親が過酷な行商で倒れ、杉山さんも同じように体を壊すようになりますが、やがて各地の書道家から注文が入るようになり、伝統工芸士や現代の名工に認定されるまでになりました。(平成2年、労働大臣から「伝統工芸士」に認定。平成10年4月29日には旭日瑞宝章を受章。)

石を削って硯を作る作業は大変で、作業場には長い柄のついたノミが何本も並んでいます。このノミの柄の根元の方をしっかり握り、先を右肩甲骨のくぼみにあてがって、上半身の体重を柄に押しつけながら石を削っていきます。ノミの頭を叩いて削っていくのではないので重労働です。このため、杉山さんの右肩には10円玉くらいの大きなアザが3つついていて、ゑみ子さんはそれを「勲章」と呼んでいます。これまでに作ったものの中では、350kgを越える畳一貼分くらいのものもあったそうで、6人がかりで運搬したそうです。杉山さんが開発した技法に「透かし彫り」と呼ばれるものがあり、硯の墨を摺る部分の周りに植物の絵などが彫られているのですが、それが単に台に彫りつけられているのではなく、浮いているように彫られているのです。表面が盛り上がっているだけでなく、立体的に施工されていて、この技術は杉山さん独自のもので、見た目の豪華さとともに、滑らかに磨き上げられた黒光りする硯は重厚で気品があり、まさに他の追随を許さない名工の逸品です。機械をまったく使わずに手で彫るからできる硯で、何十年使ってもすり減らず、墨を摺るときの滑らかさが変わらない。力を入れなくても短時間で濃い墨が得られ、墨を摺る楽しみを大きくしてくれるのが杉山さんの硯です。


2011年の震災では、雄勝町も巨大津波で大きな被害を受けました。大型の観光バスが公民館の屋上に乗っかった写真が報道され、当時4200人いた住民の多くが家を流され、湾に面した町は壊滅。住めなくなった住民の転出が相次ぎ、現在の人口はかつての1/4以下。復興住宅の完成も遅れ、高台への集団移転もまだ時間がかかります。家も、工房も、硯も、道具も、なにもかも流されて、大崎市での避難生活も3年に及びました。震災当日、雄勝硯伝統産業会館で実演を行っていた杉山さんは、見学者に高台に避難するよう伝えた後、ご本人も無我夢中で自転車のペダルを踏み自宅へ向かいました。無事を案じて自宅で待っていたゑみ子さんと裏山に逃げ、まさに危機一髪で助かったそうです。当時、雄勝総合支所に勤めていた娘の寿美恵さんも庁舎の屋上に駆け上がり助かりましたが、次々と避難してくる住民さんの対応に追われ、家族のことなど考える余裕もなく、翌日になり、やっと総合支所に避難してきた両親に会えたそうです。3月11日は雪が降る中、杉林で夜を過ごした隣人や避難者たちの内、ゑみ子さんの腕の中で1人の高齢女性が眠るように息を引き取ったそうです。

そんな絶望の中でもうれしいことがありました。息子さん(娘の寿美恵さんの夫)が元の工房跡地から杉山さん夫婦が作った2本のキュウリが実る図柄の硯を見つけてくれたことで、希望が湧いてきます。それでも、夏から始まった大崎市での仮住まい生活は慣れない環境の中、徐々に体調を崩し、糖尿病の持病もあり引退を決意します。そんな秋の日に、また息子さんが自宅のあった跡から古い道具と石材を拾い集め届けてくれました。久しぶりに石を彫り始めた途端、みるみるうちに体調は回復。近所に作業場を借り硯工としての自分を取り戻します。大津波にも、流せなかったもの。杉山さんの場合は、「体に染みついた確かな技術」と「誇り」ではないでしょうか。3年余りの避難生活を経て登米市豊里町下町に新居を構え、自宅横には集塵機を設置した新しい工房も作りました。中を見せていただきましたが、石を削るときには自然光でなければ微妙な部分が見えにくいそうで、作業台の前には窓があり、明るく開放的な空間でした。

移住後に病に倒れ、半身に少し麻痺が残ったため、元どおりの作業はできなくなったとのことですが、硯の話になると身を乗り出し静かに語られる姿は、物静かで頑固な職人気質が滲み出て、まさに『気骨の人』でした。雄勝町でも中国産の学用品の安い硯の製造が増えてくる中、「良いものを長く使ってもらうというのが親父の方針。たくさん作って儲けようという考えはなかった」と話す杉山さん。そんな杉山さんが作る硯は皇室に献呈されたこともあるそうです。雅号の「唐龍斎」は、初めて行商に行った東京の書家からもらったもので、作品の裏には必ずこの号を彫り込み、使う石も「唐龍石」と呼んでいます。但し、号はあっても杉山さん自身は書をしないそうで、「私は硯だけ」と言い切る頑な(かたくな)な職人魂は米寿を迎える今も健在です。その代わり、娘の寿美恵さんが書を嗜(たしな)まれ、新居の玄関に飾られた絵や書の作品には素敵な書体のキャプションが並びます。父親譲りの芸術家の才能が豊かで、今回のお父様の写真も、市役所勤務時代に広報係で活躍されたカメラの腕で寿美恵さんが撮られたものです。取材中に帰って来た寿美恵さんの娘さん(澄夫さんのお孫さん)も東京ではデザインの勉強をしていたとのこと。杉山家は庭の花壇や室内の装飾にもセンスがあふれ、本当に仲の良い素敵なご家族でした。

最後に一つだけこんなエピソードも。せっかくいただいた受章の証書が津波で流され、内閣府に再交付をお願いしたところ、いかなる理由でも再発行はできないということでしたが、瑞宝章を交付した証明書は発行していただいたそうです。勲章は「実費」で新しいものをもらえたそうで、二つを大切にしているそうです。こんな素晴らしい功績の本物の名工に『豊里の人間国宝』などというたいそうな称号を進呈するのはお恥ずかしいのですが、とっても喜んで下さいました。豊里町への移住は何のご縁もゆかりもなく、息子さんたちが候補地として探し回った中から、「ここに住もう!」と決められたようです。高齢者の両親を気遣い、再建した家に一日でも早く住まわせてあげたいと建設も急いだそうです。そんな他所から来た者に『豊里の』人間国宝を授与されたことが嬉しかったのでしょうね。話の途中で感極まり涙ぐまれる姿に、杉山さんに人間国宝の認定を承諾してもらえて良かったと胸が熱くなりました。

 

【追記】
かつて国内の硯生産9割を誇った石巻市雄勝町。東日本大震災の津波で集落ごと壊滅し、復興への道程は険しいが、繊細・精巧な細工の名人、杉山澄夫さんは新天地で再び故郷の石と向き合い、体調と相談しながら、少しずつ少しずつ作品を作り続けていく。杉山さんにしか作れない「透かし彫り」の硯は、手元に残った1枚だけだが、「一回作ったものはどれも今でも作れる」と話す。「失敗することはない。若い時に失敗したからね。歳を取ってからは、全く失敗しない」出典:月刊『新世』(一般社団法人倫理研究所刊)「歩み続けるひとびと『気と骨』(キトホネ)」より転載

その他参考とした資料
asahi.com 2011年4月2日掲載 それでも伝える、伝統の技 宮城石巻の雄勝硯
PHP ヒューマンドキュメント 「私は硯だけ」かたくなな職人魂は健在 より引用させていただきました。

豊里コミュニティ推進協議会のfacebookでも詳しく記事が紹介されていますので良かったらご覧下さい。

 

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